今回の内容に入ります。
ここでも『本来の自らの心を取り戻せ』と言われています。
本来の私達とは『神仏の愛の光でできた魂を持っている』ということでしたね。
本来の私達の心が恐怖で曇ると、いろんなことを見誤ってしまうそうです。
つまり、この世が暗く苦しみに満ちて見えるのならば、それは私達の心に恐怖があるということです。恐怖は恐怖を呼び込みます。
そのため、いろんな情報に翻弄されてしまうことになります。
不安な時ほどあやふやな情報に踊らされてしまうことがありませんか?
朝子供を送る時に渋滞に巻き込まれ、前の車について行って、ついつい脇道に入ってしまい、結局はそれ以上に時間がかかってしまったり。
子供の高校の保護者会の日に、いつもの道が工事中で、道に迷って前の保護者の方について行くと、結局行き止まりで一緒にとぼとぼと引き返したり。
そういう時って時間にゆとりがない時なんですよね。 「遅れるかもしれないという不安」があるのです。そうした時に浮き足立ってしまい、魔が差したり、足元掬われたりするのでしょう。
今回の言葉の中では『死の恐怖』というものが挙げられています。多くがこのことに起因しているというのです。
そこで「死」というものがどういうものなのか、決して恐れるものではないということを繰り返し説明されています。
私は病気の経験があるせいか、自分が死ぬこと自体はかつて身近にあったので、今はあまり頓着していません。もちろん痛いのや苦しいのは怖いですが。でも私が自分が死ぬことよりも恐ろしいのは、家族に迷惑をかけること、あるいは家族や大切な人達が苦しんでいるのを見ることでした。
こういう方は、けっこう多いのではないでしょうか?
ただこの恐怖は、「今を楽しんで生きること」「この生は色んな体験をするためにあるのだということ」を実感するにつれて薄れていきました。
そしてある日ポコっと取れたのです。
恐怖があるうちはどこか何もかもが実感が薄かったです。・・何故か?
それは常に恐怖の対象を探して、警戒することに気を取られ続けていたからです。
去年ぽこっと恐怖が取れた時、しばらくぼーっとしました。そして3日目くらいにようやく自分に何が起きたのかわかったのです。
それまで私は常にレベル MAX の警戒態勢でした。ノーマークなのに、です・・
常に臨戦態勢で、いつ尋ねられても応えられるように色んな会話や出来事を記憶していました。それらは無意識だったのですが、無意識だからこそ、いつ止めるということもなく、ずっと気を張り詰め続けていたのです。
それが普通の状態でした。 だからそれに気づくこともありませんでした。
でも恐怖が取れて無くなったものだから、警戒する必要が無くなって、警戒態勢が一気に解けて、頭の中が空白になったのでした。空白になるとどうなるか?
この後、ものすごい変化を体験することになるのです。